涙の意味(連載第1回)
先日発表した号(6月4日号)では、小田急電鉄の旧形電車が引退する話を扱った。その話は、それで終わりにするつもりだったのだが、その引退劇で、世間の人々の中に、意外な反応をした人がいたようだ。そこで、再度その「意外な反応」をたたき台にして、もう少し違った話を進めることにする。
小田急電鉄という鉄道会社で、最も古い電車2600形は、去る6月5日に「さよなら運転」をして、営業から完全に引退した。のべ40年の長きにわたり、小田急の通勤輸送を支え続けてきたのだが、その功績は、極めて大きかったと思う。そのため、多くのファンが、さよなら運転と、そのあとの展示イベントには詰めかけたようだ。一部は遠く関西からも。
近年こうしたイベントそのものは珍しくないが、この日の夕方から、ネットの掲示板を見ていると、ちょっと意外な書き込みが、何件もあった。
それは、この電車の最後の走行を見て、涙があふれて、泣いてしまったという人が、少なくとも5〜6人いたことである。
曰く「最後の入庫を見送ったら、ホームで大泣きしてしまうのはわかっていたから、遠くの駅でそっと見届けて、一人泣いた」とか、「その場では楽しくやっていたが、うちに帰って、前に撮った2600形の写真を見ていたら、涙が止まらなくなった」など…。
おそらく書いている人々は、20〜40代の男性ではないかと、その文体などから思えたが、私の目からすると、電車の引退で泣く人がいるというのは、ちょっと信じがたいことであった。
今までこういうイベントは、いくらもあって、私自身参加したこともあるけれど、さすがに泣いている人は、見かけたことはなかったし。
そこでそれらの人々に、「本当に泣いたの?」と書き込みをしてみると、「嘘でした」とは誰も書かないのである。どうやら、本気で本気らしい。
よくドラマの最終回を見て、アニメの最終回が悲しくて、ボロ泣きだったといった話は聞く。「水戸黄門」で、印籠を出して、正義が勝つシーンになると、私の既に死んだ父も、涙目になっていたのを思い出す。
これは、そのドラマなり、アニメキャラクターなりに、感情移入していて、その度合いが強く、さらにストーリーがその人の心に訴えかけるものであれば、まま考えうる。人間は感情の生物だから、それが虚構であるとわかっていても、自分と対象を重ねあわせるということは、私も含めて当然にありうるからだ。
しかし、対象が機械である電車であるとなると…、いまひとつどういう心持ちなのかは、わからないような気分である。
そもそも、人はどうして泣くのだろうか?。心理学や精神医学のような知識はないから、一般的な推察になるけれども、状況としては、感激したとき、感動したとき、悲しいとき、寂しいとき、悔しいときなどが考えられる。しかし、そういう状況のときに、どういう意味を持って泣くのか?。あるいは、泣くこと自体にどういう意味があるのか?という点については、感情の発露程度のことしか、理由の説明はできない。
涙を流すとすっきりするという。事実、集団で悲しい映画を見て泣く会のような、セラピーがあるという。人間が泣くという行動の中には、なにがしかの意味があるはずなのだが。
…と人ごとのように書く、私はどうなのか、と言えば、かつて中学生くらいまでは、相当な泣き虫だった。だが、さすがに大人になった今は、もうここ何年も、涙を流して大泣きするといったことはない。歳とともに、涙腺自体は、確実にゆるくなったとは思うが…。
私の受けてきた時代の教育は、「人前で泣くのはみっともない」とか、「男はめったなことで泣くものではない」というようなものだったから、それが中年になった今でも影響しているのだと思う。
しかし、人前ではなく、一人で静かに泣くのは、悪いことなのか?。男は…、というが、これほど男女平等の世になっているのに、男だけがどうして泣いてはいけないのか?。それらの「反問」に対して、私は明確な回答をすることはできない。「別に人様に迷惑をかけるわけじゃなし、いいんじゃないだろうか」としか言えない。
(以下次号)→続きを読む |